子どもの絵を取り巻く状況あれこれ


先週の月曜、「子どもの文化学校」という保育者さん向けの公開講座で、久しぶりに子どもの絵についてお話をさせていただく機会がありました。


講座のテーマは、2年前に出版した『子どもは描きながら世界をつくる』を読んでくださった事務局の方の発案で、「子どもの描画場面から何を読み取るか」。

(日頃お付き合いのある保育現場ではちょくちょくお話しているテーマですが、「子どもとの関係性から描画表現を掘り下げる」という考え方が抽象的なこともあり、じつは本の刊行以来、その内容でご依頼があったのは本を輪読してくださっていたある大学院のクラスからのお話のみで、保育者さん向けの講座ではこれが初めて。)


当日は、60名近い保育者さんたちからいろいろなリアクションや質問をいただきまして、新しい反応や関心を知ることができた一方、昔から(といっても私がリアルに把握しているのはこの十数年)子どもの絵の周辺にあった問題が、今も変わらずに残っていることを教えていただきました。

それで、改めて個人的に気づいたこととあれこれ思うところを、まとめて書いておくことにします。



当日の講座では、理論的背景にも少しだけ触れ、いくつか映像を見ながら具体的な場面の解説などしたのですが、皆さん現役の保育者さんなので、私としてはそれぞれの方の身体的な直感に訴えかけたいと思い、ちょっとだけ自分の手と体を使って子どものように描く作業をやっていただきました。


そのあとに皆さんから語られた感想の中には、「色が重なっていく面白さに気づいた」とか「描く音で描画が連鎖していくことに気づいた」とか素敵な反応がいくつもあって、中には「子どもはこんな楽しいことをしているのかと嬉しくなった」と書かれた方もいて、ほっこりしてしまいました。



ただ、そういう「描くことそのものの楽しさ、面白さを感じ取る」ということとは全く別の次元で、実際の現場の子どもの絵を取り巻く状況には、いろいろな課題が残されている現実があります。


子どもの絵に関するお話をした後に必ず質問されることがあるのですが、その内容をまとめていうと「ある程度の年齢になると技術の優劣が比較されて、他の子と同じように描けない子が気になってくる」、それをどうしたらいいか、ということです。


子どもの表現について意識の高い保育者さんが集まっている場では、当然「子どもの表現は技術の優劣で測るものではない」という基本的前提がすでに共有されているわけですが、しかしそのうえで避けられない問題が「絵の技術の優劣は視覚的に顕著にあらわれるので、それが子どもの保護者の不安を煽ってしまって悩ましい…」ということなんですね。



でもそもそもこれは保育現場だけが抱えるべき問題ではなく、一方で、親御さんたちの認識のみの問題でもありません。


子どもの表現を取り巻く社会にはいろいろな矛盾があって、「子どもの個性を大事に、主体性を大事に」と言う一方で、私たちの社会は「絶対的な見方」で人間を評価する文化を根強く内包しています。私たち大人の認識には、その文化が多分に反映されています(※)

そしてその文化は、一人の人の中で、あるいは一つのコミュニティの中で長く受け継がれた強固な習慣になっていたりするので、そうそう簡単に解消することができません。


ようするに、現代の子どもの絵に関して優先的に解消すべき問題は、じつは子どもの発達の問題以前に私たちが共有している文化の中にあって、さらに「それが当たり前すぎて多くの人に気づかれていない」ということです。


だからその問題を解消していくための最初の一歩は、例えば「評価をしてはいけない!」といった(これまた一元的な)考え方をぐいぐい普及させることではなく、まず私たち大人の一人ひとりが「あたりまえの習慣の中にある矛盾に気づくこと」だと私は思っています。


すでに葛藤している方たちはその矛盾に気づいているわけなので、そうしたら、どうすれば矛盾をなくせるのか、具体的な方策を現場で話し合えたらそれが一番いいでしょう。

そのためには「話し合える現場」であることが大前提にはなりますが、もし話し合えたら、「そもそもどうして一斉に描いて一斉に貼り出すことにしていたんだっけ」とか「そもそもなんのためにコンクールに応募していたんだっけ」とか、「そもそも」のところを皆が考えるきっかけが生まれます。


そのうえで、いま目の前にいる子どもたちを前に検討していくわけですから、現場で出てくる答はそれぞれの現場の子どもに合わせたものになるでしょうし、それぞれの保育者さんの個性を反映したものになるでしょう。それが自然な仕事の仕方ではないでしょうか。



私は自分が考えることが好きなので、こと表現の問題に関しては、すでにある考え方を学びつつも、それぞれの方がそれぞれ自分なりの手探りでやり方を見つけていくのがいいと思っています。

だってそのほうが、仕事をしていて面白いじゃないですか。


もし「世間的な評価を気にし過ぎてみんなが(子どもも大人も)元気を失くしていくことを避けるために必要な唯一絶対の事柄」があるとすれば、それは、コミュニティにときどき新しい風(人、知見、方法)を入れていくことだと私は思います。

そうすれば、少なくとも「絶対的な評価」という幻想がコミュニティ内の「当たり前」になっていくことを防げますし、遠回りしながらも一人ひとりの方の考えは「より大切なもの」を選択するほうへ進んでいくはずですから。


そして子ども自身の表現を豊かに引き出したいと望むならば、技術上の課題ありきで子どもを見るのではなく、子どもが自分で「描き表したい」と思う何かを見つけられる環境、不完全ながらも「描いたものを見てもらいたい」と思える環境をみんなで協力してつくっていくのが、一番大事なことなのだろうと思います(※)




※ これと同様の考えを、昨年の『教育と医学』(慶應義塾大学出版会)2017年1月号掲載の論考に書きました(片岡杏子「こどもの表現の「うつわ」としての社会」)。


















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『子どもは描きながら世界をつくる

 ​エピソードで読む描画のはじまり

片岡杏子 ミネルヴァ書房

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